イチゴ苗、怒涛の水やり

イチゴ苗の水やり
イチゴ苗の水やり

 9月上旬から、恒例の子苗栽培床への水やりが始まった。6月上旬の植え付け、7月~8月の花房摘除などの管理作業の次に労力をひたすら必要とする大事な工程である。9月は、とにかくこれでもかというほどたくさんの水を掛けて掛けまくるのです。散水チューブも併用しながら、培地に水がしみわたるまで長いホースを引き回し、ハウスの中を行ったり来たりする。ハウス1棟だけなので、オートメーション化する必要もない。手動での潅水作業は、ある意味良い運動であり、何しろ2時間近くホースをもって延々と通路を歩くので、適度に腕と足腰の筋肉が鍛えられる。わざわざ金を払ってスポーツジムなどに行かずとも、労働しながら体力維持といった健康増進効果も得られる素敵な仕事なのだ。緑の葉っぱを眺めながら、ときおり花を取り損ねた株からイチゴの実がなってしまうのだが、それをつまんで食べたりしながら散水している。むろん対人ストレスなどは皆無で、精神衛生上もすこぶる良い。

 今年は、年初から肥料の高騰・在庫不足が社会現象となっている。ウクライナ情勢や中国が自国の人口増加と近代化に伴い食料や肥料などの輸出国から輸入国に転じたことで、日本に入ってきていた肥料原料などの調達が滞り始めた。

 日本政府は、緑の改革と名打って2050年までに化学肥料や化学農薬の使用を減らすよう政策を打ち出した。しかし、それよりも前にフードロスをなんとかしなくてはならないのではないか?コロナウィルスの爆発的な感染で、営業自粛を強いられた飲食業界における廃棄ロスは一時的に減ったかもしれないが、スーパー・コンビニなどの小売流通・生産農家側での肉、野菜、米、牛乳、加工食品などの廃棄ロスは計り知れない。SDGsで子どもの貧困を無くそうというのは大事だけれど、必要としている人たちに食料やお金が回っていかない今のこの歪んだ社会構造を正すことから始めなくてはならない。農林水産業は多かれ少なかれ地球環境に影響を及ぼしながら行われている産業のひとつ。無理なく無駄なく食料を届け、消費側も過不足なく食べきらなくてはならない。捨てるくらいなら、はじめから過剰に作るなということだし、余ったところから足りないところへ供給するなど(国内国外問わず)、不均衡を均すことから始めるべきではなかろうか。

 まもなく安部元総理大臣の国葬が執り行われ巨額の税金が使われる。昨年延期開催された東京オリンピックに関する贈収賄事件。相変わらずの政治的アピールや利権がらみの社会構造で、私利私欲の暴走がとまらない。お金はある所にはたくさんあり、ないところにはまったくない。世界は物価高・インフレで金融緩和政策に見切りをつけ金利上昇に舵を切る一方で、我が国の日銀は相変わらずのマイナス金利(超低金利)といった緩和政策を続け、景気の後退につながるから金利は上げませんとの一点張り。お陰で円安・ドル高が進行して留まる気配がない。輸出企業にとっては好都合かもしれないが、基本的に日本は輸入国だと思っているから(資材から工業製品・食料品に至るまで)、総合的にみて損または良くて損益トントンなのではないか?内需が拡大していた戦後から1960年代くらいまでは、国内向けの政策で良いかもしれないが、今のようなグローバル経済下において長引く日銀の金融緩和政策に私は反対である。円安ドル高で利益を上げている企業経済界の圧力でもあるのではないかと、そんな陰謀じみた疑いをもってしまうほど、日銀と政府の及び腰が腹立たしい。

ただ、こう言えるのには訳があって、ここ数年は金融機関からの借入が減り、多少なりともドル建てで決済する取引先(支払先)ができた社内事情もある。けれども仮に金利が上昇に転じたとしても、企業の運転資金や住宅などの個人ローンは、信用保証料や金利負担を助成するなどして援護できるはずだし、金利が上がれば、預金残高に利息がついてその安心感から消費が上向きになるかもしれない。金融機関も貸付金の金利収入が再び増えることで、顧客へ無駄にクレジットカード契約を頼んで手数料を取ったり、iDeCoや積立NISAを執拗に勧めて手数料収入を少しでも得ようと営業に躍起にならなくて済む。私が子供だったころ、正月にもらったお年玉を預けていた郵便貯金の通帳を見て、毎年利息で増えた預金残高に心躍ったものである。まぁ、こういった考え方も時代遅れなのかもしれないけれど。島国で持続可能な暮らしを細々とそれなりに幸せな暮らしを送ってゆくか、イノベーションが生まれる教育環境や社会風土にして世界に打って出る先進技術大国として再び成長国家となるか。いずれもバランスが必要なのは言うまでもないけれど。

 おっと、そろそろ肥料を溶かした給水タンクの液量がなくなるころなので、今日はこの辺で散水しながら悶々と思っていたことを吐き出すのをやめにしよう。文句ばかり言ったり、自身の不遇を人や組織のせいにしてても何も始まらない。自分の力が及ばないことへの固執は、労力と時間の無駄である(諦めも肝心)。石の上にも三年、これだと思ったものに情熱を燃やし(なければ見つける努力をし)、たとへ地味な仕事であっても、焦らず腐らずこつこつと努力を続け自分の役割と仕事に専念して今を生き、明日を切り開ていくことが大切である。